文章が書けなくなった理由。| #深夜読書

『深夜読書』は、当ブログ管理人・石川による書評コラム。「深夜に読みたいエモ〜い本の紹介」をテーマに、不定期で更新。第一回は『三日間の幸福』(三秋縋 著)。

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かつて、文章を書くのが好きだった。

文章で生計を立てることを夢見て、毎日欠かさずにブログを更新した。書いた内容こそ忘れてしまったが、藁をもすがる思いだったことは覚えている。牛丼一杯分にも満たない報酬の仕事でも喜んで引き受けていた。周囲の期待に応えたかったからだ。知見のない分野の仕事にも意欲的に取り組んだおかげで、わずか数ヶ月で夢は叶う。

Twitterのタイムラインに流れる記事を読んでも、「書かれていること」を自分なりに咀嚼し、「そう書かれたわけ」を明瞭に理解できた。自分には才能があると思ったのは、周囲の大人たちに期待を寄せられていたからだと思う。金に余裕はなかったが、毎日が楽しかった。

22歳、冬。ライター人生に“転機”が訪れた。

これまで経験できなかった大きな仕事に携わる機会が増える。才能があるから、当然だと思った。しかし、現実は甘くない。幼稚な構成、言葉の誤用、乏しい表現力。仕事をするたび、知られざる能力が浮き彫りになっていく。そのとき生じた違和感を一言で表すのは、悲しいほどに容易だ。「才能なんてなかった」。

この大きな挫折は、私のライター人生に“転機”をもたらした。

期待を裏切っただけなら、まだよかった。焦燥感から、再び大きな仕事をえようとした。金になるなら、無味乾燥な仕事でもいいと思っていた。しかし、それがもっとも「書いてはいかなかった時期」だったと知ったのは、ずいぶん後になってからだった。結果として、私は文章が書けなくなった。

100文字のキャプションでさえ、まともに書けない。書こうとすれば、強烈な混乱が起きる。どんな書き出しにも、どんな言葉にも、必然性を感じない。どうしようもなく「書く能力」を失ってしまった。

けれど、書かなくては生きていけない。気がついたときには、普遍的な文章を探るようになっていた。万人に認められるものをつくろうと躍起になっていた。しかし、こと文章における「普遍性」は、そう簡単に表現できるものではない。「普遍性」は、筆者の経験や知識をもとに、誰が読んでも理解できるよう言葉を選んだ上で生まれるものだ。当然だが、「普遍性」と「ありきたり」はまったくの別物である。言い換えれば、個人の成果に宿るものか、そうでないものか。だから筆を握るたびに、泣きたくなるような混乱が起きてしまったのだと思う。

これが、文章が書けなくなった理由だ。ふと、名前も知らないおじさんが話していたことを思い出した。

「多くの失敗者は、あたかも、次の人生があったらそこでは大成功できるといいたげに失敗を語る。(中略)しかし奴らは、根本的なところで勘違いをしている。失敗を直したところにあるのが成功ってわけじゃねえんだ。そこにあるのは、あくまで灰色の出発点だ。そこんとこを、失敗者どもはわかってねえのさ」

某アイドルグループの記者会見でも似たような発言が話題になった。自分に残された道は、限りがある。一発逆転なんてない。それでも、いや、だからこそ、純粋な楽しみとして、もう一度自分のために文章を書く必要があった。

その機会を与えてくれたのが、『三日間の幸福』というわけだ。換骨奪胎な書評を書くことは情けなく思うけれど、これまでとは違い、筆が進んだ。楽しいと思えたから。本著は、未来を悲観してほとんどの寿命を売り払い、余命わずかとなった主人公の日々が綴られている。気になった人は手に取ってほしい。

う〜ん。この一文は、あまりにも“ありきたり”だ。言いまわしを変えよう。

この本には、生き続けることを諦め寿命を手放した人間が見た、残酷なくらいに美しい世界が描かれている。